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なぜ書くか(2020.10.09更新)

気がつけば、私がここにブログを投稿するようになって半年が経とうとしています。

その間、私は何度も自問自答していました。

自分の経験を語ることにどんな意味があるのか。何のためにブログを書くのか。患者さんは皆一人ひとり違った背景を持ち、治り方もそれぞれ違います。私一人の視点で書かれたきわめて個人的な経験が、一体何になるのだろうかと。

 

そんな私の問いに対して、ジェニーさんは著書の中でこんなふうに答えてくれていました。

自分のありのままを書くということは、そこに書いた内容のすべてに私が責任を負うということを意味しています。それは決して私の弱さをさらけ出しているわけではなく、そういうことができるほど強くなったということなのです。

(中略)

お伝えしたように、この本を書き上げることも、私にとっては回復への責任を引き受けるうえでとても大きな一歩でした。でも、本を書かなくても、選択して責任を引き受ける方法はいくらでもあります。だいたい、本を書く作業が誰にでも適しているはずもありません。あなたなりの方法でかまいませんので、回復への道とあなたの人生に深くかかわるような何かに対して、どんどん責任を引き受けながら力を注いでみましょう。

ジェニー・シェーファー、トム・ルートレッジ著 「私はこうして摂食障害(拒食・過食)から回復した」より

彼女のこの言葉を読み返してみて、本当にその通りだなと実感しました。

もちろん“私の書くブログが少しでも誰かの役に立ってくれたらいいな”という気持ちはゼロではありません。けれども、私が書く一番の理由はやはり自分のためなのではないかと今は思っています。

 

「責任を引き受ける」ということは、私が回復し続け、私が私の人生を歩み続けるために必要不可欠なことなのです。そして、その方法の一つが「書く」ということなのだと思っています。

 

今は、生野先生の「ブログを書いてみる?」という一言が、先生から渡されたバトンだったような気がしています。治療者である生野先生は、これまでガイド役として私の進む道を照らし導いてくれました。けれどもここから先は、自分自身で足元を照らし、道を選び、進んでいくのです。たとえそこがぬかるみだったとしても、迷ったとしても、私が選択し、その責任を引き受けるということなのです。

そう気づかされた時、自分の言葉がより深く自分自身に届いた気がしました。そしてたとえ誰にも読んでもらえないとしても、私は私自身の人生を生きるために書きたいと思います。

 

私がこのテーマで書こうと思った時、実はもう一つのことが頭に浮かんでいました。それはある患者さんの言葉でした。

「自分は仕事もしていなくてお金も稼いでいないくせに、逆にお金ばかりかかってしまって、生きている意味がない。」

その患者さんは涙ながらにこうおっしゃいました。家族に迷惑をかけてばかりいると自分を責めていらっしゃいました。

私自身も休職していた時期は、確かにこの患者さんと同じようなことを考えていました。

 

では、仕事をしていない人には生きている意味はないのでしょうか。逆に、お金さえ稼いでいれば生きている意味があると言えるのでしょうか。

私はこう思います。「生きている意味」とは、仕事をしているとか、いくら稼いでいるといった表面的なことではないと思うのです。

その人にとっての「意味」をその人がどう紡ぎだすか。それが大切なのだと思います。ただ、私にとってはこの患者さんから「生きている意味とは何か」と問われたことで、改めて深く考えさせられたわけです。それは、この患者さんが「生きて」私に与えた影響だと思うのです。

私はこの患者さんの「生きている意味」を実感しました。けれども、この患者さん自身が「自分には生きている意味がないように感じている」というところがこの方の苦しみなのだろうと思います。

 

なぜ書くのか。なぜ生きるのか。その問いに正解はありません。しかし、その人にとっての答えはきっとあるはずです。そしてそれは、その人にしか見いだせないものなのです。今はまだ見えてこないかもしれないけれど、必ずあなたの中にあるはずです。

 

今日は金子みすゞさんの「土」という詩をご紹介して終わりたいと思います。

 

こッつん こッつん
ぶたれる土は
よい畑になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
ふまれる土は
よい道になって
車を通すよ。

ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

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