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左手のピアニスト(2020.10.16更新)

ある日、偶然目にしたテレビ番組で語られる、その言葉に思わず引き込まれてしまいました。

 

皆さんは、「左手のピアニスト」として活躍されている智内威雄さんという方をご存知でしょうか。正直私自身は、この番組を観るまでは存じ上げませんでした。

智内さんはピアニストとして数々の国際コンクールで入賞されていました。そんな中、25歳の時右手の「局所性ジストニア」を発症しました。ジストニアとは脳の誤作動により、動かしたい部分がうまく動かせなくなる状態です。数年間リハビリに専念され、日常生活にはほぼ支障をきたさないまでに回復されたそうです。

 

しかしそれは、再び右手で演奏できる状態とは違っていました。智内さんはインタビューの中で、「主治医から日常生活はほぼ問題なく送れるまでに回復しているわけだからこれは完治だと言われた時、初めて絶望を味わった」と話されていました。

それまでリハビリをすれば元の状態に戻れると思っていたのですから、そうではないという現実を突きつけられた時のショックはどれほど大きかったでしょう。一時は自分が灰になったように感じたそうですが、そんな絶望の淵で様々なことを思い出し、考えたそうです。

 

自分は何のためにピアノを弾いてきたのだろうか。小学生のころ、自分がピアノを弾くことで喜んでくれる人がいることを知った、その時の体験。そして、他にも何か手段があるのではないかと考え、色々な道を模索したそうです。ほかの楽器や声楽などにも挑戦されたそうですがどれもしっくりこなかったそうです。

 

そんな時、智内さんは恩師からある楽譜を手渡されたのです。それが左手の音楽との出会いとなったわけです。智内さんは当初、左手の音楽の存在そのものは知っていましたが、片手で弾くわけだからその魅力も両手で弾くものに比べたら半分程度しかないだろうと思っていたそうです。けれども実際に練習してみると、不思議な感覚に襲われたというのです。

インタビューの中では「片手の音楽は個人の想いをより強く出せる。妙に迫ってくるものがある。両手の音楽というのは指揮者に似ていて、どこか客観的である。」と語っていらっしゃいました。

 

左手のための音楽というのはもともと、第一次世界大戦のころ戦争で右腕を失ったピアニストのために有名な作曲家たちが作ったのだそうです。智内さんは、戦争という絶望の中で生まれた音楽にこそ音楽の原石があるのではないかと感じ、そしてそれを伝えるということに自分の使命を見出されたのでした。

 

生い立ちをみてみると、父は画家、母は声楽家という環境に生まれ、生まれる前からピアノが家にあったそうです。物心つく頃にはすでにピアノを弾いていて、生活の一部になっていたそうです。彼にとってピアノの演奏とはごく自然なことだったのでしょう。

智内さんは子供のころから、「なぜピアノをやっているのか」「なぜ音楽をやっているのか」と聞かれるたび返答に困っていたと話されていましたが、それは彼にとってピアノを弾くということはあまりに自然な行為であったからなのだと思います。

ジストニアを発症後リハビリに専念し、これ以上の回復は望めないと医者から宣告を受けたことをきっかけに、智内さんは今の自分を受け入れ、「ピアニスト」である以前に「智内威雄」としての人生を自分の足で歩き始めたのかもしれないと、私は感じました。

 

私はそんな智内さんの生き方に、どこか自分の歩んできた道を重ね合わせていました。私の場合は幼いころから両親の示した将来像を実現するために一生懸命努力してきたわけですが、医学部入学後にはたと動けなくなってしまいました。

自分は何のために医師になろうとしているのか、そもそも本当に医師になりたいのだろうか。私は何をしようとしているのだろうか。私にはそれさえ分かりませんでした。

けれども摂食障害という苦しい生き方に行き詰まり、治療を受けようと決心したところから、ある意味では私の本当の人生が始まったのではないかと思います。長らく放置され続けていた自分の本当の課題に向き合い、一歩ずつその歩みを進めていく中で、私はようやくその答えにたどり着いたような気がします。

 

智内さんも私も、もしかするとどこか“与えられたもの”にある時点まではあまり疑問を持たずに生きてきたのかもしれません。けれども、何かのきっかけから「自分とは何か」「自分が求めるものは何か」そして「どう生きたいのか」を深く考えさせられたのではないでしょうか。

 

そしてこの文章を書きながら、私は以前生野先生から聞いた“埋まっている仏を掘り出す”という話を思い出していました。うろ覚えだったので調べてみると、この話は夏目漱石の「夢十夜」という小説の第六夜の中に出てくる言葉なんですね。

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」

夏目漱石 「夢十夜」より

 

摂食障害の治療目標として、「人生の価値や目的を創造すること」や「その価値や目的に沿った行動をとれるようになること」をお話しすると、患者さんやご家族から時々こんなことを言われることがあります。

「そんなもの、持っている人のほうが少ないんじゃないですか」とか「それが見つからないと良くならないんですか」と。

私は、「人生の価値や目的の創造」とはまさに「埋まっている仏を掘り出す」ことなのではないかと思います。何もないところから創り上げたり、新しいものを見つけたりするのとは少し違うように思うのです。そして、その掘り出すという作業は、自分自身とのつながりを深めることなのだろうと思います。

そう考えると、自分の中の「仏」がどんな姿をしているのか見てみたくなりませんか?

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