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9月の空

[2020.11.13]

父親の死後しばらくすると、母はものすごい勢いで家の中の荷物を整理し、家を取り壊し、土地の売却を決断しました。

その間何度か電話でのやり取りはしていたのですが、大切に取っておいた私のランドセルやノート、本などはいつの間にか処分されていました。また、父の趣味だった古いバイクや車、父の使っていたものなども廃棄したと後から聞かされました。

 

そして母は私に、弟の住むマンションの階違いに引っ越すことにしたと言いました。私は父が亡くなった後どうするか(仕事を続けるかどうか、どこで生活するのかなど)は母の考え次第だと思っていたので、特に私から意見することはありませんでした。

 

けれども、1周忌もまだ終わらぬうちに実家がなくなり、その土地も人手に渡り、母が弟と同じマンションに住むことになるという事態は、全く想像していませんでした。今思えば、あの時の母の決断の速さの裏には、母自身が抱えきれなかった深い喪失感と哀しみがあったのかもしれません。

 

色々なことが矢継ぎ早に起こり、父に対する気持ちもまだ整理がつかない状態のままあっという間に1周忌を迎えました。

母も含め家族とはその日久しぶりに顔を合わせました。私は母のずいぶんと若返って見える姿に驚きました。また、弟と同じマンションでの生活ぶりを話すその様子は、田舎から初めて上京して都会暮らしを満喫する大学生のように私には感じられました。

 

その時はただただ母の様子に驚くばかりでしたが、法要を終え自宅に戻った時、私はふとこう思いました。

「母と私は別の惑星(ほし)に住んでいて、互いに言葉が通じないようなものなのかもしれない。でもだからと言って他人というのではなくて、やっぱり私にとって母は母なんだなぁ。」と。

母に対する恨みでもなく、怒りでもなく、ただ純粋にそう感じたのでした。

 

おそらくこれが、私にとっての「母との分離」が進んだ瞬間だったように思います。それまでの私は、親に対する怒りを抱えながらもやはりどこかで親を求め、期待していました。事あるごとに母に電話をしたり、自分の病気を理解してもらいたくて、母を家に呼んで紙に描いた図を見せながら説明してみたこともありました。

けれども、そのたびに私は、自分の期待とは違った母の反応に苛立ち、傷つきを感じていました。

 

突然の父の死をきっかけに長年住んだ実家も土地も失い、母は上京して新しい生活を始めました。そういった一連の出来事が、母との分離を後押したような気がします。

そして「私にはもう帰る場所はないんだ。夫と二人で自分の人生を生きていくんだ」という覚悟をも芽生えさせたような気がします。

 

崔先生が書かれた「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」では親との分離についてこのように説明されています。

 

外傷的育ちを生きてきた人は親との分離が凍結したままです。「親がああいう状態だったからそれが実現されなかっただけで、いつか親が自分を100%抱えてくれる日が訪れる可能性があるのではないか」という「100%幻想」を持っています。その幻想にお別れするのが分離です。

それは、親の限界を認め、「親が万一私のことを本気で全力で愛して認めてくれたとしても、私の人生の苦悩を丸ごと抱えて肩代わりすることはできない」という事実を受け入れることです。

(中略)

真の分離は次のように言いかえることができます。「世界中のあらゆる人が私のことを本気で全力で愛して認めてくれたとしても、私の人生の苦悩を丸ごと抱えて肩代わりすることはできない」ことを認めることです。心の分離、自他境界の体得と表現することができます。

崔烔仁著 「メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服」より

 

ある日母に対する気持ちの変化を生野先生に話した時、初めて涙がほろりと零れ落ちました。「いつか母が私を理解してくれる日がくるかもしれない」という期待を捨て、「たとえ親であっても自分の気持ちを100%理解することはできないものなんだ」と受け入れたことをはっきりと認識した瞬間でした。私の涙はそんな「お別れの涙」だったのだと思います。

 

そして、その時の気持ちを思い出すとそれはまるで9月の空のようだと感じました。9月の空は、一見するとまだ真夏のそれとは大きく変わっていないようにも見えます。

けれども、夏から秋へと空気の変化は着実に始まっています。夏の終わりという切なさを交え晴れ渡るその空は、母との分離を経験した私の心を表しているようでした。

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