メニュー

カウンセリングと精神療法の違い

[2014.03.17]

水島広子先生が、『病気に対する「治療」、ストレスに対する「カウンセリング」、と明確にできないものか。』というツイートをされていました。

 

実際に水島先生は『トラウマの現実に向き合う』の中で、カウンセリングと「治療」の違いについて
以下のように書かれています。

無条件の肯定的関心を与えられ、安心することは、変わるための必要条件である。そして実際に、安心するだけで変化を起こす人も多い。これは治療環境でなくても十分に可能なことであり、多くのカウンセリングがそういう目的で行われているのだろう。
しかし、診断可能な病気の状態にある人の場合は、一般に「治療」が必要である。そのような患者にとっては、安心することは必要条件ではあるが十分条件ではない、ということになる。
水島広子・著『トラウマの現実に向き合う』岩崎学術出版社

この「治療」とはここでは「精神療法」を指し、「薬物療法」ではありません。
「薬物療法」は生活を立て直す一助になるギプスや松葉杖のようなもので、「精神療法」は手術(+リハビリ)と考えていただくとイメージが掴みやすいかもしれませんね。

 

そのような「治療」である精神療法は、病気(疾患)の「診断」という行為が先行します。

その「診断」については『「精神医療」73号 [特集]精神療法はどこへ向かうのか』で、東京慈恵会医科大学第三病院の中村敬先生が以下のように述べておられます。

横断的な状態像と経過によって診断を決めていくという診断方法だと、患者の病前性格をきちんと評価するという観点や患者の生活史を丹念にたどって現在の問題を理解していくという観点、患者の生きている現実をしっかりとみるという視点も抜け落ちる。
(中略)
患者独自の生活史を丹念にたどり、過去から現在に至る患者の人生をひとつの「歴史」として把握することは、現在の症状を了解するために不可欠であるばかりでなく、これからの治療に寄与する潜在的な資源を探す営みでもある。
「精神医療」73号 [特集]精神療法はどこへ向かうのか

さすが森田療法の専門家です。
患者さんを診るという視点の深さを感じますよね。
ここで中村先生がおっしゃっている「歴史」は「本人の文脈」であり、それを理解するということですよね。

そのような「歴史」や「文脈」の把握がないと症状だけからの安易な診断によって、「悪いところを治す」というジャッジメントにつながり、それが薬物療法偏重やいいかげんな精神療法につながっているようです。

 

そもそも「治療」とは中村先生がおっしゃるように「潜在的な資源を探す営み」でもあり、三田こころの健康クリニックで対人関係療法を受けた/受けている患者さんにも説明しているように、「健康な部分を広げていく」ことなのですよね。

「治療」はプロセスを阻害しているものを解決する力を高める役割を果たす。
特に対人関係療法などの焦点化された治療は、変わろうとするエネルギーの通り道を狭くすることによって、その勢いを増す効果があると言える。
水島広子・著『トラウマの現実に向き合う』岩崎学術出版社

と水島先生も書いておられるように、「プロセスを阻害しているものを解決する力」はもともと人間に備わったものでレジリエンス(治癒力)といいます。
この力を高めること、健康な部分が拡がることで、病的な部分が相対的に目立たなくなってくるのですよね。

病気が治る(たとえばPTSDの診断基準を満たさなくなる)ことと、トラウマから回復することは、同義ではない。
「病気が治る」ということは、トラウマの影響を受けながらも、日常生活が成立しないほどのアンバランスからは抜け出す、ということである。
治療が終わった後も、元患者であるトラウマ体験者は、日常生活の中で、自己・他者・世界への信頼を回復し続け、コントロール感覚を取り戻し続けることになる。
水島広子・著『トラウマの現実に向き合う』岩崎学術出版社

ということですし、摂食障害の場合は、

「病気が治る」というのは、「体型が気にならなくなる」ということではなくて、「体型へのこだわりが生活を乱さなくなる」ということだと考えて下さい。
水島広子・著『拒食症・過食症を対人関係療法で治す』紀伊國屋書店

このような次元が「病気が治る」ということですよね。

 

「医学モデル」にもとづく「診断」ができないと「治療」である精神療法に結びつかないだけでなく、
どのような「治療」が向いているかの判断もできないということですよね。

院長

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME