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過食症の対人関係療法であつかう「対人関係の欠如」

[2015.08.31]

食べ物と他者はよく似ている。なぜならそれらはふたつとも、人間にとって怖いからである。
食べることも、他者と交わることも、自らの境界の内部に外部を招き入れること、つまりそうすることで自らの内部に何らかの「ゆらぎ」を生じさせる点で同じである。
そのゆらぎは自らにとって心地よいこともあるが、一方それは凶器となり、自らをひどく傷つけることもある。
どちらに転ぶかわからないからこそ、食べ物と他者は、自己と外界の区別ができる人間にとって本質的に怖い。
磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』春秋社

「自らの境界の内側に外部を招き入れること」を、対人関係療法では「境界線」とか「敷地」という考え方で治療目標の1つにも挙げていますよね

「自らの境界の内側に外部を招き入れ」たことによる「ゆらぎ」が、「自分を傷つけるかもしれない評価を怖れる」「自分の価値を下げそうな評価を怖れる」などの「評価への過敏性」につながります。

評価を避けるために「他者の思惑に合わせた生き方」をすることで、「やせたい気持ち」にしがみついて「やせたい病気」に至り、その状態が維持されるという精神病理が「過食症」や「むちゃ食い障害」の本質なのです。

 

三田こころの健康クリニックでは、「評価への過敏性」という言い方をしていますが、もともとは、過食症やむちゃ食い障害に限定で使用される「対人関係の欠如」のことなのです。

過食症やむちゃ食い障害に比較的多く見られる「対人関係の欠如」は、引きこもりタイプではなく、
はたから見れば友達が多く自信があるように見えるけれども、本人は自信がなく、本当に親しい関係を持ったり維持したりすることができない」
というタイプです。
こういうタイプの人にとっては、「親しさ」は「孤独」と同じくらいストレスになります。
相手が自分の中に踏み込んでくることに不愉快さを感じても「ノー」と言えないので、親しくなるのが怖いのです。
あるいは、自分の内面をきちんと伝えることができないので、常にいい顔をしてつきあうことしかできず、親しい関係は大変な負担になります。
(中略)
実際の所は、安定した親しい人間関係を続ける能力の欠如であり、まさに対人関係療法の対象となります。
水島広子『拒食症・過食症を対人関係療法で治す』紀伊國屋書店

「対人関係の欠如」では意味が通らないために、スチュアートらの「対人関係への敏感さ(対人関係過敏)」を、他者との関係性そのものへの過敏さだけでなく対人関係の「評価」への怖れでもあると見なしているのです。

そして「評価への過敏性」は、過食症やむちゃ食い障害だけでなくトラウマや気分変調性障害にも応用可能な問題領域であることを見いだしたのです。

言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの両方を振り返り、患者が他人のコミュニケーションをどのように誤解している可能性があるかということを強調したり、他人に対してはっきりとコミュニケーションしていないということを強調したりする。
治療者は、患者がどのようにやりとりから引きこもり、非言語的に他人を「押し」やっているかを理解出来るように助ける。
治療者はまた、患者が非言語的コミュニケーションを用いずにやりとりを続けたりやめたりすることを積極的に選べるようなやり方を話し合う。
対人関係療法総合ガイド』岩崎学術出版社

 

つまり「評価への過敏性」や「対人関係の欠如」で扱っていくのは、「対人学習」ということで、他者を通じて自分自身を知り、コミュニケーションの修正スキルを身につけることに加えて、「自分の選択に自覚と責任をもつ」という主体性の確立が対人関係療法でいう「スキルを身につける」ことなのですよね。

 

このやり方が、「不安定型愛着スタイル(岡田先生がおっしゃる「愛着障害」)」を獲得修正型の安定型愛着スタイルに変化させることにつながります。

人はかかわりのなかでしか生きていけない。だからこそ私たちはかかわりを作り、かかわりの中で生きるために食べる。
(中略)
食べることの本質は人と人との具体的なつながりの中に存在するのである。
磯野真穂『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』春秋社

 

つまり、「人と人とのつながり(安定型の愛着スタイル)」によって、食べることの本質を取り戻していくことが対人関係療法での過食症からの回復に必要不可欠のプロセスと考えられますよね。

院長

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