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摂食障害と過敏型自己愛

[2013.02.04]

前回『摂食障害(過食症)の病理〜自分隠しと対人過敏』で、「本当の自己」と「見られる自己」の乖離、そして、「見られる自己」という「ハイマート:安全基地」の試みが「対人過敏(対人関係の欠如)」という過食症の維持因子になっていることを見てきました。

そしてこの「本当の自己」と「見られる自己」の乖離が「脆弱だが愛おしい自己というものへの過剰な意識」というギャバードのいう「過敏型自己愛パーソナリティ」との関連を指摘されています。

 

摂食障害を「自己愛」というキーワードで見るとどう見えるかについて考えていきます。

野間先生は、摂食障害の中心病理が「成熟拒否」から「平凡恐怖」に移り、「平凡恐怖」に隠された他者の評価への過敏性そのものが自己愛パーソナリティと関連するとおっしゃいます。

20世紀半ばに摂食障害患者によってしばしば語られた「成熟拒否」という特徴は、21世紀には影をひそめてしまい、そのようなことを口にする患者はきわめて稀になった。
それに代わってこの病の重要な特徴として注目されてきたのは、自分がほかの一般の人びとの中に埋没したくない、ほかの人とは違う自分を示したいという「平凡恐怖」である。
彼らの関心の中心はあくまで、自分が周囲の他者とくらべてどうなのか、なのである。
一方で、専門家からしばしばこの病の治癒の困難さが告白されるが、その理由として、摂食障害患者の持つ根深い自己愛パーソナリティの存在が指摘されている。
ここでいう自己愛とは、その表現から連想されるような、「自分だけを愛する」という意味よりも広い。すなわち、「自分が」ほかの人にどう見られるか、「自分が」ほかの人から愛されているか、「自分が」ほかの人から劣っていないか、といったように、つねに「自分」を意識し、「自分」について考えてしまう態度を「自己愛的」というのである。そこには、容易には崩しがたい自己の病理がある。
『解離する生命』「愛のキアスム」

 

他者の評価への過敏性は、とくに過食症の治療焦点領域とする「対人関係の範囲は適切だが、人にどう思われるかが心配で自分の気持ちを表現できない」という「対人関係の欠如」として扱いますが、他者からの評価への過敏さという点ではスコット・スチュアートがいうように、「対人過敏性」と言った方がしっくりきますよね。

ただし、トラウマの焦点領域でも「敵にやられないようにする」という意味で「対人過敏」を使っていますので区別が必要です。

 

「見られる自己」とはなんなのだろうか。
「見られる」ということは、他者による評価の対象となる自らの属性——日々のふるまい、学業勤労の成績、外見、体型、そして体重——からなる自己である。
外界に対する仮面(persona)としての私たちが形成し続けている自己であり、ここではそれを「人格的自己 personal self」と呼ぶことにしよう。
私たちが社会の中で生きていくためには、いかにそれを作り上げるかが重要ではあるが、摂食障害患者にとってはそのことが何よりも優先されている。それは努力して業績を上げることであり、外見をとりつくろうことであり、そして、やせることである。
『解離する生命』「愛のキアスム」

 

ここでいう「人格的自己」は役割としての自分のことですよね。
野間先生はそれらを仮面(ペルソナ)とおっしゃいます。ペルソナ(仮面)は、パーソナリティ(人格)の語源でもあり自分(パーソン)の一側面でもあるのですよね。

 

もっともこのような自己は、本来はどこにも実体としては存在しない。
不可知の他者の視線によってそのように構築されているはずとの信念から患者自身によって夢想される、空疎な張りぼての自己である。
これを強化し肥大させることによって、彼らが「本当の自己」と仮定する、弱々しくか細い自分は、他者の目に触れることなくひっそりと生き続けようと試みる。
このような「本当の自己」を、意識における経験の主体(subject)であるという意味で、「主体的自己 subjective self」と呼ぼう。
「やせ」という突出した人格的自己の背後に隠された主体的自己は、無傷のまま保持される。
じつはそれどころか、守られた主体的自己の万能感は増大し、人格的自己を自由に操作し、それによって周囲世界を意のままに支配できるはずと信じ込むのである。

人として生きる前に、私たちのうちには、動物としての、生命体としての、統一的な生が生きているはずである。
そのような、動物や生命一般にも通じるような、一つのまとまりとしての生きる営みを司っている自己を、「生命的自己 biotic self」と呼ぶことにしよう。
この生命的自己を基盤に、社会的人間特有の象徴化作用によって人格的自己が構築され、その生命の象徴化の瞬間において「私」という自己意識としての主体的自己がそのつど析出されるのである。
『解離する生命』「愛のキアスム」

本当の自分(主体的自己)」「役割としての自分(人格的自己)」、そしてその基盤である「生命体としての自分(生命的自己)」という3つの自分の側面が明らかになりました。

 

摂食障害では、「役割としての自分」の過剰な肥大が「生命体としての自分」から反逆されている状態だと野間先生はおっしゃいます。

食を病む者は、主体的自己を解放させようとして人格的自己を肥大させるあまり、生命的自己本来の活動を歪めている。
摂食障害という病を自己論から見れば、「人格的自己の肥大に対する生命的自己の暴走」と言い換えることができるだろう。
満腹空腹という生来の生命活動を感知することができず、飢餓の恍惚に生きようとする拒食もそうである。
食への衝動に突き動かされ、肥満恐怖から嘔吐し、その過食嘔吐が一つの忌まわしい快感となって習慣化する過食もまた、そうである。
身体をも人格的自己のなかに組み入れて支配せんとする、摂食障害患者の当初の試みは、まさにその身体による反逆によって破綻してしまう。
そして残されたのは、身体からの逆支配という苦悩の日々なのである。
『解離する生命』「愛のキアスム」

 

対人関係療法では精神分析のように転移解釈は行いませんが、摂食障害が「役割としての自分」の過剰な肥大という過敏型自己愛パーソナリティを根底に有するのなら融合・鏡映・理想化という自己愛パーソナリティの3つの転移を知っておく必要がありそうですよね。

他者との共存を単純に促すだけでは、摂食障害者の強固で繊細な自己愛は崩せないだろう。
彼らの自己愛を容認し、彼らの人格的自己を尊重し、それでもそのような作り物の自己はそもそも無力なので他者に支えられることの意味深さを伝え、そして彼らが本来もっているはずの生きる力を信じさせるようなことができるなら、食の病からの解放が期待できるかもしれない。
『解離する生命』「愛のキアスム」

 

実際、対人関係療法では転移そのものは扱わないものの、話の内容の背景にある感情の動きに対して
善悪・是非などの価値判断(評価)は一切行わず、「是認」すること(無条件の肯定的態度)を示しますから、自己愛パーソナリティの転移に対してはすごく効果的ですよね。

 

いずれ触れる予定ですが、周囲にどう思われているかにとらわれる自己不信・他者不信の過敏性自己愛の病理を有する「気分変調性障害」にも対人関係療法が有効な理由は、この治療者の態度にありそうですよね。

次回は、自己愛をキーワードに摂食障害と依存との関連を見ていきます。

院長

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