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刹那の反転4〜語り(ナラティヴ)の時間

[2012.12.25]
刹那の反転3〜主体的意識の立ち上がり』で、刺激が意識に上がるまでに、0.5秒もの脳の処理過程が必要であり、この0.5秒の遅延の間に、「まなざし」の“投影”と“取り入れ”によって動態化し、出来事を組み替えなおし、最初から知覚していたかのように認識するということをみてきましたよね。 内海健・著『さまよえる自己』(筑摩選書)から、0.5秒の遅延の秘密を読み進めていきましょう。   内海先生はこう述べています。
つまり0.5秒とは、物語るための時間なのである。生き延びることの間尺に合いそうもないこの遅延は、「語り」を拓くものだった。それもただ事象の移り行きを記述しているのではない。そこに自分を関与させるのである。つまり、単にリアルタイムに自分が出来事に居合わせたとするのではない。それだけでも大きな改変であるが、さらにそこに主体として関わったのだとするのである。 自己はつねに時間の流れのなかに居合わせるのではない。何かに応答して立ち上がるのである。その際、自己は事象に遅れる。それも0.5秒という途轍もない遅延である。しかしこの遅延は、起こった事象を物語り、自分の経験として取り込むことを可能にする。 記号の反復可能性によって、遅れを架橋し、最初から居合わせたという錯覚をもつことができる。 内海健・著『さまよえる自己』(筑摩選書)
  主体的自己は、0.5秒の遅延の間に「起こった事象を物語り、自分の経験として取り込む」のですが、トラウマやフラッシュバックを考えた場合、その“投影”と“取り入れ”が停止してしまう、つまり「トラウマティックな出来事をどう体験したか」ということが問題になりそうです。  
“心の不調”は厳密にいえば直面している問題そのものから、直接生じることは決してない。“心の不調”は、その問題を“どのように意味づけたか、どのように価値づけたか”によって生じるのである。 宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)
  では、トラウマやフラッシュバックの瞬間には、心(主体的自己=意識)は、それをどのように体験するのでしょうか? 宇田亮一さんは、トラウマと密接な関係のある解離性障害について書いています。
解離性障害とは<現在への没入>ということになる。言い換えれば、<過去と未来の欠落>のなかで生きていることになる。うつ病患者や統合失調症患者の心的体験の特徴は<今、ここ>から離れてしまうことにある。これに対して、解離性障害の患者は<今、今、今、今……>を生きるのである。そのため、心的体験としては葛藤が存在しない。葛藤が存在しないかわりに、<現在>だけに停滞する息苦しさと空虚さを体験することになる。リアリティ<現実感>はあるのに、アクチュアリティ<生命感>がないのである。 宇田亮一・著『吉本隆明『心的現象論』の読み方』(文芸社)
  「今」に拘束され、リアリティ<現実感>はあるのにアクチュアリティ<生命感>がない状態が解離性障害だとすればトラウマそのものは、どうでしょう。
外傷的な出来事に遭遇した場合、とくにそれを自分一人が人知れず経験した場合、その経験についての実感がもちにくい。自分が外傷を被ったのは事実である。でも、誰もそのことを知らないし、自分も認めたくない。その外傷は自分しか被っていないので、そもそもほかの人にわかるはずがない。そのような逡巡のなかで、外傷体験の「実感」が薄れていくだけではなく、実感がもてないながらも激しい苦痛だけは確かにあるという特殊な体験をした自分の存在そのものが、不確かなものとなってしまう。周囲世界から離隔し主体性が拡散するあり方は、まさにコントラ・フェストゥムである。 野間俊一・著『身体の時間』(筑摩選書)
「実感がもてないながらも激しい苦痛だけは確かにある」ことと、「リアリティ<現実感>はあるのに、アクチュアリティ<生命感>がない」ことは、どこかで符合するようです。   つまり、トラウマティックな体験やフラッシュバック、あるいは解離性障害などでは、0.5秒の遅延の間に起こるはずの「起こった事象を物語り、自分の経験として取り込む」ことが停止し、「受動性から能動性への反転不全」が起きるために、<今>に閉塞(過去と未来からの離断)することによる「実感がもてないながらも激しい苦痛だけは確かにある」という症状を呈してくるようですね。 院長
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