逆境的小児期体験と発達性トラウマ障害
2018年に改訂されたICD-11(日本語版は2022年に刊行予定)で「複雑性PTSD(complex PTSD)」の診断基準が採用され、幼少期から児童期にかけての虐待・ネグレクトなどの逆境体験に曝されてきた子どもたちや成人に対する「トラウマ」「アタッチメント(愛着)」の理解や診断、治療の分野に大きな関心が集まっています。
「発達特性とアタッチメントの問題、小児期の逆境体験(中略)の3つの領域が極めて個別性をもってオーバーラップし、複雑な状態を呈していることが多い」とされています。(八木. 大災害後の長期経過で顕在化する子どものトラウマと発達に関する複雑な問題の実相. トラウマティック・ストレス 18(1); 36-46, 2020)
フェリッティらの「ACE(逆境的小児期体験)」研究では、18歳までのさまざまな「虐待体験」や「家族機能不全」が発達領域に悪影響を及ぼし、その後の不適応のリスクを高めることが報告されました。
「虐待体験」は、親による侮辱、暴言、暴力、性的虐待、ネグレクトの他に、家族の誰からも大事にされていない、家族どうしの仲が悪い、誰も守ってくれないと感じた経験、など、精神的または身体的なストレス要因を含み、アタッチメント対象からのトラウマ(愛着トラウマ・関係性トラウマ)の問題を引き起こします。
「家族機能不全」は、別居や離婚による親との別離、母親に対する暴力や暴言の目撃、家族に薬物・アルコール依存やうつ病など精神疾患の罹患があること,家族に自傷行為や自殺企図をする人がいる,または服役中の人がいるなど、本来、安全基地であるはずの家庭が危険な場所になることで、子どものアタッチメントの敏感性低下を引き起こします。
「逆境的小児期体験(ACE)」の影響は、神経発達不全や社会的・情緒的・認知的障害のリスクを高めること、薬物乱用、対人間の暴力、自殺未遂などが起きやすいこと、さらに次世代の養育にも大きくかかわってくること(世代間伝達)など、歳月の経過によって自然に癒されることができない影響をもたらすと考えられています。
例えば認知領域では、記憶の問題や学習困難、認知発達の遅れ等のリスクを高め、このことが学習困難や学校での不適応に関連している可能性が指摘されてきた。
また、ACEを有する児童では、注意や行動のコントロールに困難を有する場合も多く、注意欠如・多動症(ADHD)や問題行動のリスク要因である可能性が示唆されている。
また、非定型な情動や社会性の発達がみられることも多く、報酬に対する感受性の低下や情動制御の困難が伴い、さらに精神疾患の発症や対人関係の問題、反社会的活動への関与などのリスクが増加することが指摘されている。
藤澤・他. 児童期逆境体験(ACE)が脳発達に及ぼす影響と養育者支援への展望. 精神経誌122 (2): 135-143. 2020.
このような「逆境的小児期体験(ACE)」では、安定的なアタッチメントが形成されにくく、加えてトラウマ体験も数多く経験されることになり、トラウマによって起きる諸症状に加え、愛着形成の課題も引き起こすこととなります。
「虐待体験」であるアタッチメント対象(養育者)からのトラウマは、「関係性トラウマ」あるいは「愛着トラウマ」と呼ばれます。
そもそもアタッチメント(愛着)は、「危機的な状況に際して、あるいは潜在的な危機に備えて、特定の対象との近接を求め、またこれを維持しようとする個体の傾性」です。
アタッチメント行動は、危機的な状況で陰性感情が高まった際に、アタッチメント対象へ近接することで崩れた感情をなだめ回復するシステムなのですが、虐待児においてはアタッチメント対象の安全性が確保されないだけでなく、トラウマ体験も数多く経験されることになります。
そのため「逆境的小児期体験(ACE)」の当事者は、精神的または身体的なストレス要因に対する防衛手段が十分に形成されないまま、トラウマ関連症状である「嫌悪記憶の想起(フラッシュバック)」「回避症状」「過覚醒症状(驚愕・警戒反応)」だけでなく、「認知の変化(「自分が悪かったと責める」「世の中は危険だと猜疑的になる」など)」「感情調節の障害」「対人関係の障害」などの症状を呈するようになります。
つまり「逆境的小児期体験(ACE)」により、注意欠如多動症(ADHD)に似た「自己制御(情動調節や衝動制御)の障害」、自閉症スペクトラム障害(ASD)に似た「関係性の障害(対人関係の問題)」、知的障害に似た「認知の障害(記憶の問題や学習困難、認知発達の遅れ)」など、「自己組織化の障害(DSO)」を呈するようになるのです。
ヴァン・デア・コークは長期にわたる逆境的な体験をしている児童の特徴について、「発達性トラウマ障害」の診断概念を提唱しています。
「発達性トラウマ障害」は、以下の特徴を呈するとされています。
①感情および身体調節の障害
②注意と行動の調節障害
③自己および対人関係における調節障害
④トラウマ関連症状の存在を認め、そのために様々な領域において問題を呈しているもの
「発達性トラウマ障害」では成長段階に応じて表現が変化し、幼児期の愛着形成の障害は自閉症スペクトラム障害(ASD)似た状態を呈し、学童期になると注意欠如/多動症(ADHD)のような多動症状と破壊的行動が前面に表れます。
思春期には心的外傷後ストレス障害(PTSD)や解離症状の顕在化・明確化などが起きてきます。
その結果、慢性うつ病や双極性障害、不安障害やパニック障害、身体化障害、摂食障害(過食嘔吐や多衝動性過食症)、アルコール乱用や性的乱脈、月経前気分不快症候群(PMDD)や境界性(情緒不安定性)パーソナリティ障害(BPD)、非自殺的な自傷行為(自己破壊行動)など、診断カテゴリーを横断するさまざまな病態を呈するようになり、成人期になると一部は複雑性PTSDに進展するといった経過が想定されています。
福井大学子どものこころの発達研究センターの杉山先生は、第24回日本摂食障害学会の「摂食障害と複雑性PTSD」と題した教育講演で以下のように述べられていました。
子ども虐待の後遺症として生じる一連の複合的な症状は、カテゴリー診断の枠を超え、いわゆる異型連続性(heterotypic continuity;Lahey et al., 2014)が生じる。
幼児期にattachment 障害の形を取り、学童期には自閉スペクトラム症(ASD)/ 注意欠如多動症(ADHD)の臨床像を呈し、青年期にさしかかるとトラウマ起因の解離性障害や素行症が目立つようになり、成人期には解離性同一性障害や物質依存障害など、複雑性PTSD の臨床像に移行していく。
この一連の変化そのものが発達性トラウマ障害(van der Kolk, 2005)である。
「逆境的小児期体験(ACE)」にともなうアタッチメント形成の障害とトラウマ関連障害は重なりあって、問題は複雑化・深刻化していくことになるのです。
院長